保坂和志著、"ハレルヤ"。
かぐや姫が月に帰るのは死を意味している。小津安二郎監督の"秋刀魚の味"のラスト、嫁いだ娘の部屋は無人となったが月明かりに照らされている。
花ちゃんが旅立ったのは十二月二十八日の夜。満月ではなく新月だった・・・。
で始まる飼い猫の死をモチーフにした表題作、"ハレルヤ"を含む四作の短編集。
彼の生活は猫を中心にして成立している。今は外猫のシロちゃんの世話にかなりの時間を割いている。川端康成文学賞の受賞スピーチでは『今の僕の生活は、猫が第一、小説は二の次なんです。』と言い放った。
とても興味がわいた。保坂和志という作家に。それは同時に著作を読んでみたくなったということでもある。
そんなわけで読んでみたのが今作、"ハレルヤ"。
ある程度の予想はしていたが、いわゆる純文学で、常日頃、ザ・エンターテインメントなものしか読んでいない私には、少々読みづらい難物だった。
が、それでも読み進めていくうちに読み方みたいなものが分かってきて、正直、おもしろいとまでは言わないが、読み飽きないとは感じるようになった。
けれど最後に収録されている"生きる歓び"を読み始めた時、一気に印象が変わった。
興味深いとか理解できるとか胸に響くとか心に届くとか、そういった類の積極的に読み進めさせる何かが湧いてきた。
"生きる歓び"は、冒頭の"ハレルヤ"で旅立った花ちゃんとの出会いを描いた一編。すでに"ハレルヤ"を読んで花ちゃんの死を知っていたからかもしれない。とても自然に、スーッと花ちゃんとの物語が入ってきた。
表紙の写真の猫が花ちゃん。花ちゃんは片目がなかった。でもそれはネガティブなことじゃなくて、花ちゃんにとっても飼い主にとっても普通のことだった。
ああ、花ちゃんはこの家で飼われてよかったなと思いながら読み終え、あとがきまで読み、ふと思い付いて、また冒頭の"ハレルヤ"を読み直した。
すると最初に読んだ時より全然入ってきた。言葉としてってより、頭に身体に心の中に、直接、感覚として。本文中の『言葉を介在させずに記憶する』というのをちょっと体験したのかもしれない。
花ちゃんの死、花ちゃんとの出会い、つまりは花ちゃんとの生活を、一気にギュッと経験したようにすら思えた。
今までの経験上、読み返した本なんてそう何冊もないけど、この本はいつか読み返すと思う。